2009年06月18日

単独もしくは総合的に計画する場合に用いられる

単独もしくは総合的に計画する場合に用いられる。 「環境デザイン」は、本来的に持っている総合性により、多様な分野を内包している。 環境デザインに含まれる分野を以下に例示する。

空間や建築、ランドスケープの設計
社会基盤整備
人の技術醸成、教育
自然環境との共生
自然環境とそこにおいて生活・休暇等を行う人間の諸活動との関係性に基づいて、その在り方や関係する人工物を計画・設計する。(環境問題そのものではない。)
自然エネルギーの利用、建物の長寿命化への配慮などによって、少しでも環境への負担の少ない持続可能、サスティナブルな製品や建築、維持保全プロセスを図るデザイン。創造と廃棄をめぐる環境デザイン。つくることの現代的な意味を問いながら環境を考察してゆく中に、情報の発見や情報の創造を確認する。つくるという行為は、創造と廃棄を全体として構想することでここに消費と廃棄というサイクルを越える創造的な可能性を感じ取ることができる。
建築ならびに建築群設計、インテリアデザイン、空間デザイン、バーチャル空間設計、スペースデザイン、アーバンデザイン、都市環境デザイン、シビックデザイン
ランドスケープデザインとしての造園行為や森林施業、ガーデンデザイン、サウンドスケープなどやストリートなどのファニチャーデザイン 景観プロダクトデザイン 街路景観整備
ボディビルディング
芸術
原子力工学
グラフィックデザイン
楽譜
インダストリアルデザイン
太陽系
マラソン
風水
北海道
肥満
インディアカ
核医学
ゴルフ
性行為感染症
ポリマー
デング熱
電子工学
色素性乾皮症
農業工学


アースワークなどの環境芸術
視覚伝達としてサインシステムデザイン、都市デザインや建築のなかの部分をになう作業として位置づけられている。サインやサインシステムは、人々の暮らしのありかたや空間と場のもつダイナミズムやものやしぐさのなかにあらわれる文化的なあらわれとしてみられまたそれらは、それぞれの潜在的な「いとなみ」のなかから浮上する「かたち」としてとらえられる。安易なかたちのシミュレーションを求めるのではなく、生活のなかの型や祭りや日常の身振りのなかに潜在するかたちを組織してゆくことが求められる。
社会システム整備、観光デザイン 都市および地域計画、都市や農村等の整備、社会基盤整備などにおいての景観形成
ただしこうした都市や都市基盤、建築や建築群、まちなみなどの都市景観、土木構造物や都市施設、集落村落などや農林水産業空間、観光地や並木街路樹・公園緑地など造園分野、エクステリアやインテリア、ファニチャーやランドアートなどといった既往の専門領域で分断されていたデザイン行為を適切に関連付けるといった、総合的なデザインも「環境デザイン」と呼ばれている。

2009年06月01日

超大陸ロディニアの存在

地表の陸地のほとんどが1か所に集まり超大陸ロディニアを形成していた。またそのころ陸地面積が大幅に増えたことが示唆されている。陸地の増大は岩石の侵食を増加させ、イオン化したカルシウムやマグネシウムを大量に海へ供給した。

またロディニアは赤道付近にあり、そのことによって地球が寒冷化しやすい状態になっていたという説もある(陸地は海よりも熱の反射率が高く、赤道近くにあればそれだけ効率的に太陽エネルギーの吸収を妨げる。一方高緯度に陸地があった場合、それが氷に覆われると岩石の侵食による金属イオンの海への供給が減少し、大気中の二酸化炭素が増加して寒冷化の進行を抑える)。なお20億年以上前の寒冷化の時期にも、同じように陸地のほとんどが赤道付近に集まっていたらしい。
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海に藻類などの光合成生物が多く発生し、光合成により酸素が大気へ多量供給された。
同時期に地殻運動が活発化して、土砂が大量に海へ流入し、植物の死骸を埋没したため、死骸分解に伴う二酸化炭素など温室効果ガスの発生が抑制された。
温室効果の減少により地球全体の寒冷化が始まり、極地から次第に氷床が発達していった。氷床が太陽光を反射したため一層の寒冷化を招いた。
一度加速した寒冷化は止まらず、最終的に約3,000mにも及ぶ氷床が全地球を覆うようになり、スノーボールアースに至った。この状態は数億年~数千万年続いたとみられる。
凍結しなかった深海底や地中深部では、わずかながら生命活動が維持されていた。凍結中も火山活動による二酸化炭素の供給は続けられており、大気中の二酸化炭素濃度が高まっていった。地表が凍結している間は岩石の風化も凍結状態だった。
大気中の二酸化炭素濃度が一定比率に達すると気温が上昇し、一気に氷床の解凍が始まった。短く見積もった場合には数百年単位で極地以外の氷床が消滅して、大気温は約40℃まで上昇したと推定されている。温暖化した気候の影響により大規模な嵐や台風が頻発するようになり、岩石の風化が促進され、大量の金属イオンが海に供給された。また長年堆積していた海の沈殿物が嵐により撹拌され、沈殿物が海の表層部に舞い上がった。
大気中の高濃度の二酸化炭素は海中に溶け込み、一部は上記金属イオンと結合して大量の炭酸塩岩を海底に沈殿させた。
海の表層部に舞い上がった大量の沈殿物が光合成単細胞生物に利用され、光合成を激しく促した。またスノーボールアース以前の光合成生物の酸素放出速度より遥かに速いスピードで酸素が放出されたため、大量の酸素が地球に蓄積していった。
一部の生物が海中の高濃度の酸素を利用し、細胞接着物質であるコラーゲンを産生することに成功。単細胞間の接合が促進され、多細胞生物が出現するようになった。
スノーボールアースが始まる前(10億年前)の生物界は単細胞生物が主体で、多細胞生物は小形の菌類などがようやく出現し始めた段階であった。しかしスノーボールアースが終了した原生代末のエディアカラ紀(6.2~5.5億年前)には、エディアカラ生物群と呼ばれる大形生物が出現している。大きなものでは長さ1mを超える生物化石がオーストラリア南部のエディアカラ丘陵から産出した。この突然の大形生物出現とスノーボールアースの関係について検討が行われている。なお生物の進化は加速し、その次のカンブリア紀にはバージェス頁岩化石に代表される多様な生物群が生まれた(カンブリア爆発)。

2009年04月28日

核四極子相互作用

核四極子相互作用 は1以上の核スピン量子数を持つ原子核に存在する相互作用である。1以上の核スピン量子数を持つ原子核は電気四極子モーメントを持つ。電気四極子モーメントを持つ核が電場勾配のある環境に置かれている場合、核の向きによってエネルギーが変わるため、エネルギーの分裂が起こる。NMRと同様に共鳴吸収現象を観測することができ、これは核四極子共鳴(Nuclear Quadrupole Resonance, NQR)と呼ばれる

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eは電気素量、qは核四極子モーメント、Vは電場勾配テンソル、Qは核四極子相互作用テンソルである。 核四極子相互作用テンソルのトレースは0であるので、この相互作用は観測している原子核が充分に速く等方的に運動しているときには平均化されてラーモア周波数への影響は0となる。従ってNQRの観測も固体中に限定される。

核四極子相互作用の大きさは、対称性のない物質(=物質内の電場勾配が大きい)では他の相互作用よりも圧倒的に大きい。そのため四極子モーメントを持つ核では、その緩和はほとんど核四極子相互作用に支配される。

2009年04月13日

王 邑(おう ゆう、? - 23年)

王 邑(おう ゆう、? - 23年)は、中国の前漢時代末期から新代にかけての政治家、武将。冀州魏郡元城県の人。大将軍王商の子。兄は王況。弟は王奇。子は王睦。王邑の側室は竇融の妹である。王莽の従弟にあたり、王舜、王渉とも従兄弟である。

王舜とともに、王莽の親族にして腹心とされた人物。新においては、その創始から滅亡に至るまで三公の地位にあった重鎮である。

前漢での事跡
王邑は、兄の王況が罪があって成都侯を剥奪された後、成都侯を受け継いだ。哀帝の時代に侍中を務めていた。元寿1年(紀元前2年)、野に下っていた王莽が哀帝により長安に呼び戻された際に、王邑は太皇太后王政君の意思と偽り、王莽を特進としてこれに宮廷での官職を授けるよう進言した。しかしまもなく、哀帝が王政君にこのことを請うたため、この偽りは発覚してしまう。王政君が哀帝に謝罪し、また、哀帝も王邑が王政君の縁故であることを慮ったため、王邑の罪は減免され、西河属国都尉への降格と封戸千戸の削減に留められた。

居摂2年(7年)9月、東郡太守翟義が王莽打倒に蜂起すると、光禄勲・成都侯となっていた王邑は、王莽から虎牙将軍に任命され、奮武将軍孫建ら他の6人の将軍と共に翟義討伐に向かった。同年12月、孫建・王邑らは、圉(陳留郡)で翟義軍を殲滅し、翌居摂3年(8年)春に王邑らの軍は長安へ引き返し、翟義に呼応して槐里(右扶風)で蜂起した趙明、霍鴻を鎮圧した。その後、時期は不明だが、王邑は歩兵将軍に移っている。

大司空に就任 [編集]
始建国1年(9年)1月、王莽が新の皇帝として即位すると、哀章が献上した銅匱に、王邑も名前が記されていたため、大司空に任命され、隆新公に封じられた。

天鳳1年(14年)、王莽の命で王邑は太傅平晏と共に洛陽に派遣され、王莽のために宗廟、社稷、郊兆の建設予定地を選定した。天鳳3年(16年)2月、大地震と大雪が発生したため、王邑は骸骨を乞うたが、王莽は辞職を認めなかった。地皇1年(20年)7月、王莽が長安の南に祖廟を建築しようとすると、王邑は大司徒王尋と共に符節を与えられ、建築工事を指揮監督している。地皇3年(22年)冬、王莽の命令により、大司徒王尋は10数万の軍勢を率いて洛陽に駐屯し、大司馬董忠は軍の訓練に従事することになったため、王邑が三公全ての職を兼務している。

昆陽の大敗 [編集]
地皇4年(23年)3月[1]、漢軍の劉秀・王常らが頴川郡に進攻し、昆陽・郾・定陵の各県を攻略すると、王邑は王莽の命により洛陽に派遣され、先行して派遣されていた王尋と合流した。

王邑と王尋は各郡の部隊から100万の兵力を動員しようとし、これを「虎牙五威兵」と称した。実際に招集できた軍勢は42万だったものの、十分な大軍を組織している。また、遠征軍に関する封爵授与や軍政の決定権を掌握した王邑は、63流派の兵法家を軍官として招聘し、多数の猛獣と宝物を携帯して、その威風を示した。

同年5月、王邑と王尋は洛陽から頴川に到着した[2]。この時、宛(南陽郡。荊州の中心地)は劉縯(劉秀の兄)の軍に包囲されていたが、王邑・王尋は先に昆陽の漢軍を制圧しようと目論んだ。王邑・王尋の軍に合流した納言将軍荘尤(厳尤)は、劉縯の討伐こそが重要であるため、直ちに宛へ向かうべきであると進言したが、王邑・王尋は聞き入れず、昆陽を包囲した。王邑・王尋は、昆陽城を守備していた王鳳の降伏を赦さず、荘尤の諫言を無視して包囲を強めたため、窮鼠の王鳳らは必死で抵抗する。

昆陽攻略に梃子摺っている間に、宛は劉縯により陥落し、さらに6月、昆陽城内から脱出した劉秀が数千の援軍を引き連れて昆陽へ戻ってきた。王邑・王尋はこれを甘く見て、自ら1万人余りの軍を率いると、味方の軍勢に軽挙妄動を禁じた上で単独で劉秀軍に挑みかかる。しかし劉秀の果敢な戦いぶりの前に、王邑・王尋の軍は撃破され、王尋は戦死した。そこへ城内の漢軍も劉秀軍に呼応して出撃したため、挟撃された新軍は大混乱に陥り、王邑は指揮を放棄して逃走した。また、折からの強風豪雨に巻き込まれて、新軍は完全に崩壊・散乱し、王邑はわずか数千の兵で洛陽へたどり着いている(昆陽の戦い)。

壮絶な最期 [編集]
王邑はその後長安へ引き返した。この時、楽経祭酒の崔発は、王邑は小心者であるから自害しないよう慰める必要があると王莽に進言し、崔発が使者となってその役を担う。まもなく、王邑は大司馬に転任し、崔発が後任の大司空に任命された。

同年10月、更始帝(劉玄)配下の軍勢が武関を突破して長安へ攻め込んでくると、王邑は自ら軍を率い、昼夜を問わず督戦して迎撃した。この時、王邑の子王睦が密かに脱出しようと図ったが、王邑はこれを叱責して連れ戻した上で、共に王莽を護衛している。しかし王邑親子は、激しい白兵戦の末に、遂に力尽きて戦死した。

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2009年03月29日

ラスマス・ソーネスの時計

ノルウェー人ラスマス・ソーネス(Rasmus Sørnes )によって設計・製作された4つの天文時計のうち最後の1つは、これまで知られているこの種の時計の中でおそらく最も複雑なものであるとされており、精巧な機械が 0.70 × 0.60 × 2.10 メートルというさほど大きくない容器の中に詰め込まれている。十二宮上の太陽と月の位置、ユリウス暦の暦表、グレゴリオ暦の暦表、恒星時、グリニッジ標準時、夏時間とうるう年つきの時計、太陽・月の周期の補正、食、日出・日没、月齢、潮汐、太陽黒点の周期、さらに248年で1周し、25800年ごとに(地球の歳差により)極食(polar ecliptics )を起こす冥王星を含むプラネタリウムが含まれている。全ての歯車は真鍮製で、金めっきが施されている。文字盤は銀めっきである。
まっち棒 きたみ ショートス バルト デンバー トスタチン チップ はじめて ばんか カラー ニュー ラジウム アドミラル プロフィット ネリカ スレッド 恋草子 ラッカー プレミア コリック サーフス ケード アサイン サーチ大潮 リンガ メイリオ オブラー ソクラ コサック からし菜 パラリ ゲバ上位 ヌーデン セルフレジ 草枕 トング 夢の果て ホソル びわ検 ひつじの涙 チャイ ナッツ パー 対策リマ ブラボ タイム ラングーン メキシコ ハクサンイ かいらん

ソーネスはまた、必要な道具類も自作し、彼自身が行った天体観測に基づいて製作を行った。ソーネスの時計は1人の職人による手作りの芸術品としては最後の天文時計であると考えられている。その性能と正確性のすばらしさから、ソーネスによる電気振り子の仕掛けは機械からデジタルへの時計の変遷の象徴とされている。イリノイ州ロックフォードのタイム・ミュージアムからシカゴ科学産業博物館へと渡ったのち2002年に売却され、その後どこにあるのかは知られていない。ソーネスの3番目の時計、彼の道具類、特許、図画、望遠鏡などはノルウェー、サルプスボル(Sarpsborg )のボーガリッセル博物館(Borgarsyssel Museum )で展示されている。
ヨーロッパ諸国には天文時計が数多く存在する。ウェルズ大聖堂、エクセター、オタリー・セントメリー、ウィンボーン・ミンスター、ハンプトン・コート宮殿、シオン、ヴィンタートゥール、クレモナ、スプリト、マントヴァ、ブレシア、シュテンダール、ロスキレ、ミュンスターなど多くの都市で天文時計を見ることができる。

ルーアンの大時計(Gros Horloge )はよく知られる14世紀の天文時計であり、大時計通りにある。ベルンのチェートクロッケ(Zytglogge )も有名で、15世紀からスイスの首都に置かれている。リヨンにあるサン・ジャン大聖堂にも14世紀の天文時計が設置されている。

ドイツのエシュリンゲン・アム・ネッカーにあるフェスト(Festo )社では、ハンス・ショイレンブラント(Hans Scheurenbrand )がハルモニア・ムンディ(Harmonices Mundi 、ヨハネス・ケプラーの著書『世界の調和』からとっている)という名の時計を製作した。これは天文時計を技術的に洗練したものと世界時計に74片の音板からなるグロッケンシュピールを組み合わせたものである。

置き時計 [編集]
展示品として見栄えが良いことから、様々な卓上天文時計が作られている。17世紀のアウグスブルクでは、一人前の時計職人となるには「一級品」と呼べる非常に精巧な卓上天文時計を作らねばならなかった。ロンドンの大英博物館などでその例を見ることができる。

パリ近郊のヴェルサイユ宮殿にはロココ時代の壮麗な卓上天文時計があり、これは時計職人や技術者が12年かけて製作したものである。1754年にルイ15世に献上された。

腕時計 [編集]
近年では独立した時計職人のクリスティアン・ファン・デル・クラウー(Christiaan van der klaauw )がアストロラーベを模した腕時計である「アストロラビウム(Astrolabium )」や、「プラネタリウム2000(Planetarium 2000 )」、「エクリプス2001(Eclipse 2001 )」、「リアル・ムーン(Real Moon )」を作っている。ユリスナルダンも「アストロラビウム・ガリレオガリレイ(Astrolabium Galileo Galilei )」、「プラネタリウム・コペルニクス(Planetarium Copernicus )」、「テリリウム・ヨハネスケプラー(Tellurium Johannes Kepler )」といった天文腕時計を販売している。

日本における特徴的な天文腕時計としては、シチズンが開発した「ムーンサイン」(1984年~)及び「コスモサイン」(1986年~)というシリーズが知られている。 ムーンサインには2枚の回転盤のずれによって月齢と月の位置を示すアイデアが採用されている他、1.70等以上の恒星22個と天の川を表示する星座早見等が内蔵されている。 コスモサインは腕時計としては世界初の自動式精密星座板が採用されている。
細部は個々に異なるが、およそ以下のような共通する特徴を持っている。

時刻 [編集]
ほとんどの天文時計は24時間式の文字盤を備えており、外周にIからXIIまでの番号が2組振られている。現在の時刻は先端に金色の球か太陽の絵が付けられた時針で示される。正午は文字盤の上方、深夜は下方にあてられる。分針が使われることはまれである。

時針は同時に太陽の(北からの)方位角と高さも示す。文字盤の上は南を、2個のVIは東と西に対応する。また文字盤の上方は天頂を、2個のVIを結ぶ線は地平線を意味する(北半球で用いられることを意図した天文時計の場合)。春分・秋分の時にはこの割り当てはほぼ正しくなる。

もしXIIが文字盤の上方にない場合、あるいは数字がローマ数字でなくアラビア数字で振られている場合、いわゆるイタリア時(別名ボヘミア時、古チェコ時)が表されている可能性がある。この方式では日没を0時として、夜から昼に向かって時間を数えていき、次の日没で24時を迎える。

上に画像を掲載したプラハの時計では、時刻は太陽と指で示され、ほぼ正午(ローマ数字のXII)、もしくは第17時(アラビア数字によるイタリア時)である。

暦表と十二宮 [編集]
通常一年は十二宮を表す記号によって表現され、24時間の文字盤の内側に同心円として、または別の場所に小さな円として配置される。この円は天球上の太陽の通り道である黄道、あるいは惑星の軌道や地球の軌道面を映したものである。

地球の自転面はその交転面に対して傾いているため、黄道面を時計の盤上に投影する際には中心をずらし、形を歪める。立体投影図を作成するための投影点としては北極点を用いる。これに対し、アストロラーベでは南極点がより一般的である。

黄道盤は23時間56分(うるう時間)で完全に1回転するが、そのためだんだんと時針からずれていく。

日は時針か太陽が黄道盤を横切っている点から読み取ることができる。黄道盤は現在の星座、すなわち黄道上の太陽の場所を示している。横切っている点は1年をかけて黄道盤上をゆっくりと動いていき、太陽は星座の間を渡っていく。

上のプラハの時計の画像では、太陽はちょうどうお座を出ておひつじ座(ヒツジの角の記号)に入った所である。ここから、現在の日は3月下旬から4月初旬であるとわかる。

十二宮を示す盤が時針の内側にあるならば、この盤自身も時針の動きにあわせて回転する。1年で1周する、十二宮上の太陽の位置を示す針が別に存在する場合もある。


番号が1から29または30まで振られている盤あるいは輪は、月齢を示すためのものである。新月のときを0として満ちていき、15前後で満月となり、29または30まで欠けていく。回転する球や黒い半球、もしくは下部が隠される黒い弧を描いた窓で月相が示されていることもある。

時間線 [編集]
日中と夜間がそれぞれ12時間ずつに割り当てられていることから、夏時間との差異(unequal hour )が生じる。すなわち、ヨーロッパでは夏は日中が長く夜が短いため、日中の12時間は夜の12時間よりも長い。同様に、冬は日中が短く夜が長い。このような差異は中央から放射状に伸びる弧で補正されている。通常時間は文字盤の外側の時をそのまま読み、夏時間は時針が横切っている弧をたどり、そこに示されている数字を読む。

星の相 [編集]
占星術師たちは太陽や月、惑星が天球上にどのような配置で並んでいるかということを重視した。いずれかの惑星が三角形、六角形、四角形の場所に来ていたり、対面や隣に位置していたりすると、対応する星の相を適用し、それが重要であるかどうかを導き出した。いくつかの天文時計には中心となる文字盤の内側に一般的な星の相、例えばその相を表す三角形、四角形、六角形などの記号を配した線や、合・衝を意味する記号が描かれている。アストロラーベにはそれぞれの惑星ごとの各種の星の相を付属させることができる。一方、天文時計の場合では星の相を示す線を回転させることは難しいため、通常太陽または月の星相のみが記されている。

上に示したブレシアの時計では、盤の中央に描かれた三角形、四角形、星印が(おそらくは)月の星相(第3、第4、第6相)を表している。

竜の手 [編集]
白道(月の公転軌道)は黄道面(地球の公転面)上にはなく、2点で交わる。月は1か月に2回黄道面を横切る。1回黄道面から昇ってきたあと、それからおよそ15日経つと面の下に沈む。それらが起こる2つの位置は、それぞれ月の昇交点、降交点である。太陽や月の食は月がこれら交点の近傍に位置する時にのみ起こる。天文時計には文字盤上を横切る長い針で月の交点の位置を追跡するものがある。これは「竜の手」と呼ばれ、19年で1周する。竜の手が新月と重なると月が地球や太陽と同じ面にあることを示し、これによりその日のある時間帯には地球上のどこかで食が観測できることを意味している。

2009年03月14日

ルドゥは最初の製塩所の計画を立てていた

国王から委託されるより先に、ルドゥは最初の製塩所の計画を立てていた。しかし、その時点では、どこに建てるのかなどは一切考慮されていなかったため、彼はその計画が含む難点などを煮詰めることがないまま放置していたが、この計画は1774年4月にルイ15世に提出された[3]。

この計画は非常に野心的かつ革新的なものであった。ルドゥは厳格に幾何学的な設計を適用した。まず、中心に巨大な正方形の広場を作り、これを壁で囲む。その周りに単一の様式の様々な建物を配し、互に柱廊で結ぶ。そして作業の円滑化のために、広場を回廊で斜めに仕切り、八角形にする(図面参照)。建物には多くの円柱が用いられ、回廊には144本のドーリア式円柱が用いられていた。

計画では、さらに中央の四角い広場は製塩所の燃料用の薪の貯蔵に用いられ、各隅には四角い三階建ての離れがあった。それらには守衛室、礼拝堂、パン屋など、製塩所の生活に必要な機能が備わっていた。ほかウイングには蹄鉄工や樽工の作業場があり、奥には工場 (fabrique) があった。また、被雇用者たちに金銭的なものとは別のフォローとしての役割を持つ庭園があり、盗難防止用の頑強な外壁がめぐらされていた。[4]

これは壮大豪華な計画であったが、それがかえって計画の挫折に結びついた。当時の産業建築物にこれほど大規模なものはなかったので、ルドゥの同時代人は驚いたし、国王は宮殿や寺院でもないのに円柱を配していることなどに疑問を呈し、計画を拒否した。さらに、当時は礼拝堂を隅に配置することはけしからぬことであると見なされていた。後にルドゥもこの計画を自己批判した。[5]

計画上の平面図は全体的に病院、修道院、大農場など、古典的な共同体住環境をトレースしたものであった。他方で、四角に区切られた計画図は、古代ローマの建築家 Vitruveによる古代建築以来の欠点を持っていた。それはつまり火事が広がりやすいこと、相対的に不衛生になること、中庭が必然的に日陰になってしまうことなどである。この計画が地理的・地質的な制約を考慮していないことも批判材料となった。

新しい製塩所を建設するということは、1773年4月29日に決議された[6]。建設予定地は、徴税請負事務局の監督下にある技術委員会によって決定された。その予定地となったのが、旧アルク村と旧スナン村の間(現在両村は合併してアル=ケ=スナン)である。ここが選ばれた理由はいくつかある。まずは、平地であり、ルー (Loue) や4万アルパン以上の広さを持つショーの森 (fr:Forêt de Chaux) に近いことである。次に、大陸の中央部に位置し、ドール運河で地中海と連絡しており、ライン川を通れば北海やアントウェルペン湾に出られる交通の便のよさもある。加えて、当時スイスの塩需要が大きかったため、この国に近かったことも要因となった。計画では年間6万トンの塩生産を見込んでいた[7]。

同じ年に、王は利益を求めて、« Manutention générale des Salines » にジャン=ルー・モンクラール (Jean-Roux Monclar) を中心とする企業家集団を加え、彼らに24年間の使用許可を与えた。モンクラールは収益を意識していたために、ルドゥの最初の計画を拒否した[8]。国王によって認可されることになる建設計画は、製塩所の資金調達と建設を、使用許可も込みでモンクラールに委ねたのである。ルドゥは最初の計画案とは全く異なる第二案を提示することで面目を保った。

ルイ15世は崩御した1774年5月10日のほんの少し前に当たる同年4月27日にこの計画を認可した。10月28日にはTrudaineによって計画に署名がなされた。

建設 [編集]
建設用地の取得と工事は程なく始まった。しかし、製塩所の建設状況がどのようなものであったかを、現存する古文書類から詳細に窺い知ることは出来ない。大要は以下の如くである。

礎石は聖土曜日であった1775年4月15日の式典で置かれ、工事は1779年まで続いた。ゆえに当時の慣例からすれば、大建造物 (le gros œuvre) と土台は前もって出来ていたのだろう。大建造物は程なくして完成し、内装に未完成部分はあったものの、工場の最初の試運転は1778年秋から始まった。

モンクラールと徴税請負事務局の間で交わされた契約書にあるとおり、製塩所の経営は1779年に始まった[9]。周りの道路網は国立土木学校から派遣された若手研究員たちによって研究され、アルク村とスナン村をつなぐ道は、自由に使える労働力 (la main-d'œuvre corvéable à merci) によって石が敷き詰められた。さらに、このルートは、スイス方面への出口を保証する重要なものでもあった。企業家モンクラールは、冬の間は製塩所の土木工事夫を土木工事に従事させた。徴税請負官オードリーによれば、支出は1778年以前に見積もられていたものの2倍に上ったという[10]。

建築物 [編集]

塩水用暗渠 [編集]
サラン=レ=バンの井戸から « petites eaux » を製塩所に引き入れるために、導管が作られた。これはフュリウーズやルーの道筋に沿って21kmにわたって続く、もみの木で出来た運河であった。これは時間の経過による劣化や凍結、盗難などの対策として、地下に埋設されていた。さらに、より安全を保つために暗渠に沿って10箇所に守衛の詰め所が置かれていた。これは同時にいわば「塩税吏の道」を形成するもので、詰め所ごとに塩水の流量と濃度が測定され、結果は土曜日ごとに製塩所に送られた。塩税吏たちは「偽塩商人」と揶揄されていた盗人たちにも対応する必要があった。彼らは塩を盗むために暗渠に穴を開けたりしていたのである[11]

暗渠には高低差143mの傾斜が付けられていた。材料のもみの幹は中心が刳り貫かれており、はめ込みやすいように鉛筆状に先が尖らせてあった。はめ込みに際しては鉄の輪が併用され、しっかりとつながれていた。材料にもみが選ばれたのは、胴回りの太さと中心部が相対的に柔らかいことによる。こうして中心を刳り貫かれたもみは« bourneaux » と呼ばれていた。

絶えず工事が行われていたにもかかわらず、たくさんの割れ目が存在し、多くの塩水が流失した。その量はおよそ30%にのぼったと見積もられている。つまり、毎日135000リットルの塩水がサランから送られていたが、その無視できない量が失われていたのである。1788年からは暗渠は木製から鋳鉄製に替えられた[12] 今日でも、サラン方面から数えて2番目の詰め所であるプティット・ショーミエールは存在している。
シャンツェ こせん スーフィ フォーミュ 枯葉の輪舞 ペーンイウ ハヤシライ テラー ミズナラ コード ナウル コメン すぎな 全国情報 黒皮かぼち バイオス 黄金魂 フィーン ハング 明日へ ダッカ がんばれ ダッキ ダーティ 首飾り ヌメア オンシー オーオー シンク フライシト ボヨール アングル モサド フローリス カーフス ハラン フラット りーすりん マテリア 八千代 えびす ストーン シイ人気 ゆうすい ジェション 優しい雨 ソフト ブロック アルジェ ウジュン

鹹水製造所 (bâtiment de graduation) は1920年に壊された。建設当時は塩水を蒸発させて塩を集めるための建物だった。当時は木製の大きな骨組みで、全長は496m、高さは7mで、風が通るようになっていた。5mの高さのところに中空のパイプがあり、運ばれてきた塩水が流れ込むようになっていた。蒸発の時には風通しの良さがそれを後押しした。塩水は軽く傾斜をつけた溝付きのもみの厚板の上を流れて集められるようになっており、鹹水の濃度を高めるために、この作業が何度も繰り返された。その上で、鹹水は深さ5m、容積20万リットルの水槽に集められた。この水槽は2000m3のカバーで覆われ、監視所が併設されていた。

その他の建物 [編集]
製塩所長宅 (La maison du directeur)
塩税事務所 (Les bâtiments des commis et de la gabelle)
守衛の詰め所
厩舎
蹄鉄工場
樽工場
庭園

建築様式など [編集]
ルドゥは本来、所長宅を中心として周辺に工場や労働者住宅が配置されているような、直径370mの円形の都市計画を立てていたが、資金難などから半円状の建造物群で納得する形になった。

所長宅の正面は柱廊を備えた作りになっていて、アンドレーア・パッラーディオが手がけたヴィチェンツァ近郊の「ラ・ロトンダ」の様式を思い起こさせるものである。

フランス革命期に投獄されたルドゥは、製塩所を取り囲むショーの理想都市を思い浮かべていた。それは革命期以降に不遇をかこっていたルドゥの図面の中に見ることが出来る。

操業停止後の製塩所 [編集]
製塩所は革命期以降も存続したが、その経営は、生産効率が当初予想を下回ったことから苦しいものとなった。加えて、鉄道で運ばれた海水由来の塩との競争にもさらされたことや、製塩所の原料供給元である井戸には不純物が多かったことなどもあって、1895年に閉鎖され、荒れていった。1918年には落雷が原因で所長宅と礼拝堂が火事に遭った。

こうした惨状に対し、1923年になると、製塩所を史跡にしようとする動きも出てきた。長い予備審査を経て、1926年に史跡委員会によって好意的な決定が下された。当時、製塩所を所有していたのは、東部製塩所組合 (société des Salines de l'Est) だったが、彼らはこの決定に冷淡だった。1926年4月29日には建物の一部がダイナマイトで爆破され、周辺の木々も伐られた。こうしたこともあって、1927年にはドゥー県が買い取り、1930年から修復も行われた。

第二次世界大戦中には軍隊の駐屯地などにもなったが、そんな中での1940年2月20日に史跡に加えられたことが官報で公示された。

その後も地元の芸術家、作家、ジャーナリストたちが、世論や当局の関心を集めるためにキャンペーンを行ったりした[13]。そして、1982年にはユネスコの世界遺産に登録された。

今日、施設は一般に公開されているが、そこには二つの展示館が存在している。ひとつは旧樽工場で、ここはルドゥー記念館 (le musée Ledoux) になっており、実現しなかったものの未来を先取りしていた数々の建築計画が、模型として展示されている。もうひとつは旧製塩工場群 (les bâtiments des sels) で、当時の姿を偲ぶ展示がされている。

2009年02月25日

ジョーカー星団の第1太陽系

ジョーカー星団の第1太陽系。「東太陽系」とも言う。惑星には太陽に近い軌道順にピョトー、アドラー、デルタ・ベルン、バルーン、シュルース、ラワス、コートがあり、さらに外側に恒衛星シミターがある。人間の居住可能な惑星はアドラーとデルタ・ベルン。

惑星デルタ・ベルン
イースター太陽系第2惑星。隣の惑星アドラーと二重惑星。平均気温は低く、赤道直下においても、地球の沖縄程度である。海洋が占める割合が多い。人類の歴史は古く、「ジョーカー人類発祥の星」の座を廻ってカラミティ・ゴーダースと争っている。
王政を敷く国家が多い。星団暦2899年、グリース王国により惑星全土が統一され、星全体が政治的にも経済的にもきわめて安定したA.K.D.という連邦国家となっている。
A.K.D. (“Amaterasu Kingdom Demenses”; アマテラス・キングダム・ディメンス)
アマテラスのミカド(天照帝)が治める、惑星デルタ・ベルン全土を占める星団最大の連邦国家である。その中心は、アマテラス家が代々治めるグリースといわれる小王国ほか10カ国からなる天照王朝(「東方10ヶ国」ともいう)である。アマテラス王朝の不動産はすべて、アマテラス帝の所有物であるという。
公式の筆頭騎士団はゴーズ騎士団(命星親王騎士団)だが、アマテラス直属の私設騎士団「ミラージュ騎士団」(東方第一等幻像軍団)が事実上の筆頭騎士団と見なされている。ミラージュ騎士団はアマテラス自身が設計に携わった新型機「レッド・ミラージュ」を初めとする「ミラージュシリーズ」と呼ばれる数十体のMHを保有する。ゴーズ騎士団の主力MHはブラッド・テンプル。筆頭騎士は不明。旗艦はベル・クレール、後にザ・ウィル。
惑星アドラー
イースター太陽系の第3惑星。軌道は第2惑星デルタ・ベルンの軌道のすぐ内側であり、二重惑星と言われている。旧設定では、乾燥気候が広がり人間が居住するにはあまり適さないとされていたが、デザインズ2の出版によって、他星からの観光客も多い快適な気候の星であることが明らかになった。
トラン連邦
アダマス大陸のレント自治連合、シュリーズ共和国、ラ・バカン共和国を中心とした小国や自治区から成る民主制連邦国家。首都はトラン共和国のノーフォート。
星団7位の軍備を持つものの筆頭騎士団や筆頭騎士、旗騎は特に置いておらず、連邦公安騎士団(SPI)が筆頭騎士団相当、ルース大統領の私有騎であるクルマルス・ビブロスが旗騎と見做されることが多い。主力MHはヌーベル・イザッド。
自由な気風の国で芸術や工芸が栄える。ファティマ・マイトも多く在住する
バキンラカン帝国
大ロマン大陸北部に位置。フィルモアなどの大国から独立した経緯があり、現在でも国内にフィルモア領(エラルド島)が存在し、フィルモア王家の1つダイ・グ・フィルモア家が領主となっている。政治的に中立であることを国是とする。首都はラッカ。
君主である聖帝は、騎士の力量を瞬時に見抜くという特殊な能力を代々受け継いでいる。これにより、騎士に剣聖以下天位の称号を与える権限を有する。なお、騎士でもあるフィルモア皇帝やその代理騎士に対して、特別に「ハイランダー」の称号を授与している。
星団暦3030年現在の聖帝は前帝ミマス・サオリレナの娘カンパー・ラ=シーラ。筆頭騎士はママドア・ユーゾッタ。旗騎のクルマルス・バイ・オ・ラはトラン・ルース家のクルマルス・ビブロス、フィルモアのアビエン・ヒートサイが有するクルマルス・バイロンと兄弟騎で、超帝國の騎士ナッカンドラ・スバースにゆかり深いMHである。主力MHはフェードラで、筆頭騎士団「ラッカン・フェードラ騎士団」の名はここから採られている。永世筆頭騎士はディモス・ハイアラキ。
ディ・ヨーグン統一連邦
ヨーグン大陸の諸国家(ポー・ヨーグン、マブーブ連合、ライ・ヨーグン青民帝国)が連邦を組み、魔導大戦が終結した3075年に誕生した。初代大統領はダジャー・ビームス。
ダスニカ神聖連合
大ロマン大陸中部に位置。トラン、バキンラカンと並ぶアドラーの主要国。魔導大戦終結後、北隣のバキンラカンとの関係が悪化する模様。現在の皇帝はアグラハ。首都はダスニカ。

ウエスタ太陽系
ジョーカー星団の第2太陽系。「西太陽系」とも言う。惑星には太陽に近い軌道順にトゥルス、ボォス、アンスリノ、カーマントー、ステンがある。カーマントーの公転軌道の外側に宇宙都市イズモ・アストロシティが存在する。人間が居住可能な惑星はボォス。その他、鉱業資源の採掘地として重要なカーマントーにも移住コロニーがつくられ、数千万規模で人が住んでいる。

惑星ボォス
ウェスタ太陽系第2惑星。AD世紀に植民された。惑星全体が比較的乾燥しており、ステップ地帯が広がっている。主な国家はハスハ(アトール)、メヨーヨ、コーネラ、そしてバッハトマ。一部地方には少数民族ミミバ族が住む。
ナン大陸のカステポー地方は、超帝國時代の人類との契約によりドラゴンの聖域として、いかなる国家の統治も許されない不可侵の土地となっており、ある種の無法地帯となっている。
ハスハ連合共和国(アトール聖導王朝)
ハスハ連合共和国はミノグシア大陸の赤道上に位置し、超帝國の末裔である12ヶ国を束ねた国家連合である。首都はハスハント共和国のベイジ(ハスハントと呼ばれる場合もある)。
アトール聖導王朝は、ハスハに内包された実体をもたない国家である。実権も領土も持たず、象徴としてのみ存在する。しかし、ハスハの国民の精神的な支柱として絶大な支持を得ている。
アトール王朝はAD世紀からの超帝國の血統を受け継いでいるが、アトールの皇帝は血縁による世襲制ではなく、全ての民衆の中から前皇帝からの託宣により選ばれ任命される。歴代のアトール皇帝は、すべて強力なパラ・サイマルである巫女であり、代々の記憶と力を受け継いでいく。
ハスハの筆頭騎士団は14の騎士団から構成される「AP騎士団」。旗騎は流動的で、星団暦2997年から魔導大戦勃発まではダグラス・カイエンの私有騎であるシュペルターを旗騎としていた。筆頭騎士であるAP騎士団総団長は2997年まではマイケル・ジョーイ・ギラ、2998年から3030年まではカイエン。ネードル・シバレースは2997年のごく短期間にヤーボ・ビートが就き、ヤーボの死後2998年にカイエンが兼任した。3030年のカイエンの戦死後はAP騎士団総団長、ネードル・シバレースともに空位となっている。主力MHはクルマルスを製作した名工ゼビア・コーターの手になるA-トール。
バッハトマ魔法帝国
元々はシーブルというハツーダン大陸北部の小国であった。シーブルを独裁していたディ・バローに憑依していた超帝國の純血の魔道士ボスヤスフォートが、本来の能力を取り戻したことで興った。ボスヤスフォートを元首とし、ダイバー・パラ・ギルドに反発するダイバーを纏めるビューティ・ペールを魔道士団長、黒騎士デコース・ワイズメルを筆頭騎士とする。首都はバッハトマ。
筆頭騎士団はバッハトマ黒騎士団。国家騎士団はバッハトマ重剛騎士団で、この他に六宝騎士団(ただしこれは複数の騎士団の総称らしい)が存在する。旗騎はデコースの私有騎でもあるバッシュ・ザ・ブラックナイト。主力MHはアウェケン。
メヨーヨ四奉開経連合朝
ハツーダン大陸とナン大陸に挟まったグンガ島にある国家連合。規模はそれほど大きくないが、各地の豪族が大国との対抗で一体化している。しかし政治的には安定しておらず、各構成国が群雄割拠している状態である。その為に軍国主義による集団国家であり、全体での軍備は強大なものとなっている。
筆頭騎士団は108人の騎士から成るメヨーヨ108金剛遊撃騎士団(通称「ランナバウト騎士団」)。旗騎は筆頭騎士でもあるクラーケンベールの姫沁金剛(フランベルジュ・テンプル)。主力MHはアシュラ・テンプル。
惑星カーマントー
ウェスタ太陽系第4惑星。メトロ・テカ・クロムを始めとする希少なレアメタルが豊富に産出される惑星で、各国の鉱山が存在する。しかし、惑星全体が濃密な有毒ガスに覆われている為、人々はドーム都市の中での生活を強いられている。
シージラック王国
「王国」の名を冠しているが、実際はドーム都市の一つを領土としているに過ぎない。もともとはジュノーの一国家であったが、戦争で領土が壊滅した為、将来の再起を賭けてカーマントーに亡命政権として移転してきた。星団会議にも一応名を連ねているが、他国よりも格下に見なされている。
イズモ・アストロシティ
カーマントーに程近い宙域にある宇宙都市。現在の市長は泰千錫華。メトロ・テカ・クロム鋼を良質な「玉鋼」に加工する技術を持ち、その能力で自治権を獲得、他の植民地も含めた宇宙居住民のリーダー格としてその地位向上に努めている。近年ではDr.ダイヤモンド・ニュートラル主導で独自のMHを開発し、各国に売り込んでいる。

サザンド太陽系
ジョーカー星団の第3太陽系。「南太陽系」とも言う。惑星には太陽に近い軌道順にアトス、オハマ、ジュノー、ソード、スーロウサ、グラシャン、ペントリ、オテットがある。人間が居住可能な惑星はジュノー。

惑星ジュノー
サザンド太陽系第3惑星。惑星改造をほとんど行われず入植が行われた惑星で、惑星固有の自然が多数残されている。惑星全体が温暖で、赤道付近は亜熱帯のジャングルが広がっている。惑星そのものも比較的若く、南半球では岩盤が安定していないため、人類は居住していない。
A.K.D.が最後に侵攻した惑星となった。星団歴18097年では星団唯一の人類生存星となっている。
コーラス王朝
ロンド大陸南東部に位置するジュノーの大国。3つの王家コーラス、バランカ、マイスナー家が協力して政治を行っている。国土はそれぞれの3家の領土とコーラス20世の代から分家したメロディ公領で成り立ち、星団歴3089年にハグーダ共和国を併合している。首都はコーラス領のヤース。
2989年、隣国ハグーダ帝国からの侵攻を撃退したが、筆頭騎士でもある国王コーラス23世(実際は10の桁は省略し単に3世と呼ばれている)と3世のパートナーであるファティマ・ウリクル、そして旗騎ジュノーン(エンゲージSR.3)を失う。他国不可侵を国是としているが、星団中で軍事技術が発達するであろう魔導大戦は無視できず、大義を設けて参戦する。
コーラス王家の長子は必ず騎士の力を持って生まれること、純血の騎士の家系でないにもかかわらず剣聖ハリコン・ネーデルノイドを出したメロディ家の存在など、マイトでない3世が優れたMHジュノーンを開発するなど、コーラス王家には謎が多い。
筆頭騎士団の「トリオ騎士団」は、その名の通りは3国の騎士団の連合体である。その内首都ヤースのコーラス城を守る12名の最精鋭騎士は「トリオ・デ・トリオ」と呼ばれる。3030年現在の筆頭騎士はセイレイ・コーラス王女。旗騎はダイアモンド・ニュートラルがジュノーンを解析して作り上げたジェイド・テンプル(エンゲージSR.3レプリカ)。主力MHはベルリン。
ハグーダ帝国
コーラス王朝の隣国で、星団歴2980年代末期の王は女帝アルメメイオス。
星団歴2989年、弱小国でありながら、強大なコーラス王朝に侵攻する。その陰にはフィルモア、ハスハ、クバルカンという列強各国の存在があった。主力MHは他国の技術と資金の援助により開発したマグロウ。

ノウズ太陽系
ジョーカー星団の第4太陽系。「北太陽系」とも言う。惑星には太陽に近い軌道順にハリトン、カラミティ・ゴーダース、クラサ、ピョイト、ペスタコ、ムーパン、カナリがある。人間が居住可能な惑星はカラミティ・ゴーダースとペスタコ。

惑星カラミティ・ゴーダース
ノウズ太陽系第2惑星。イースター太陽系のデルタベルンとともに人類発祥の地とされている。どちらだか はっきりしないのは、星団歴以前のAD世紀の記録がほとんど残っていないからである。古い歴史を持った君主制国家が多い。
かなり年老いた星であるといわれており、造山活動などは ほとんど止まっている。寒冷地の多い気候であり、衛星軌道上に太陽光増幅装置を設置することで人工的に人類が居住できる環境を維持している。
ショルティ大陸とキーヤ大陸に囲まれた「破壊洋<<バスターオーシャン>>」と呼ばれる海は、バスター崩壊によって形成された巨大なクレーターであるという。かつては ここに超帝國の帝都が置かれていた。
大フィルモア帝国
大ショルティ大陸中部の過半部を占める、星団で最も歴史が古い国の一つ。王家は超帝國より続く血筋を誇り、国民はそれを誇りとしている。首都はデュアンス。アドラーのバキンラカンやボォスのカステポーにも領土を持っている。
星団最大の軍事力を背景に、他国に強い影響力を持ち、他国の内乱や紛争に度々介入している。
皇帝は代々レーダー王家かフィルモア王家から選ばれるしきたりで、魔導大戦前に「太陽王」を名乗るドル・パーマネント・レーダー8世が退位し、エラニユース・ダイ・グ・フィルモア5世が即位した。
筆頭騎士団は多くの騎士を擁する「ノイエ・シルチス」。これとは別に筆頭騎士である皇帝代理騎士「ハイランダー」、4名の皇帝直属騎士「アルカナナイツ」などが存在する。主力MHは星団三大MHの一つサイレンで、旗騎のプロミネンスとネプチューンはそのエボリューション・モデルである。3031年現在のハイランダーは皇帝エラニユース・ダイ・グ・フィルモア5世とクリスティン・V。旗艦はダランス。
クバルカン法国
大ショルティ大陸西部に位置。厳格な戒律で自らを律するルーン騎士団によって治められている国家で、国民からの信頼が厚く、他国から移り住む人も多い。フィルモアに次ぐ、星団でも有数の軍事力を保有する。首都はルナモア。
ルーン騎士団を擁し、旗騎は星団三大MHのバング(S.S.I.クバルカン)。主力騎はスチルコア。
ジャスタカーク公国
大ショルティ大陸南東部の半島に位置する小国。規模は小さいものの星団有数の騎士団を擁する事からその名が知られている。以前はカーグ王国の一部であったが、2000年代初頭に内乱に明け暮れる王国にフィルモアとクバルカンの軍事介入が行われた時に3つに分裂し、その時に功績のあった騎士団長が公爵の位をフィルモアから授けられて建国した。現在は周囲の2国と緩い同盟関係を結び、カーグ連合を形成している。魔導大戦にはハスハの旧領土奪還の名目で、バッハトマ側に付いて参戦している。筆頭騎士団はカーグ騎士団。筆頭騎士はアイオ・レーン。旗騎はグルーン・エルダグライン。主力騎はシャクター。
ロッゾ帝国
キーヤ大陸の大半を占める大国。首都はオラウド。超帝國時代には重産業地帯として発達してきた地域で、現在でも多数の産業都市を有する。かつてはスパチュラ国が存在していたが、AD世紀末期にナ・イ・ンがバスター・ランチャーを撃ち込んで消滅させた後、いくつもの産業都市国家が連合を組んで現在のロッゾ帝国を形成した。帝国の名を冠しているが、どちらかと言えば連邦制に近く、皇帝も連邦議会の選挙によって選ばれている。3031年現在の皇帝はレオ・ブーチェル。筆頭騎士団はヴーグラ騎士団。筆頭騎士はダックナード・ボア・ジィ。旗騎はヘルマイネ。主力騎はバルンシャ、ツァイト。
ウモス国家社会主義共和国
キーヤ大陸北西の荒涼とした地域に存在する国家。首都はプロコルハルム。デヴォンシャシリーズなど多数のMHを輸出している。カラミティでは比較的新しい国であり、フィルモアや隣国のロッゾから政争に敗れて追放されたりした人々が集まって「青い影」と呼ばれる政治結社を結成したのが始まりである。「青い影」はそのままウモス唯一の政党の名前となり、現在の一党独裁政治の中心となっている。また、この国の建国にはシステム・カリギュラが深く関わっている。3031年現在の元首はフォッケヴォルフ・ムックル総統。筆頭騎士団は青銅騎士団。旗騎は紫苑鋼。主力騎はデヴォンシャシリーズ多数。
アティア王国
キーヤ大陸北東に位置する小国。ミラージュ騎士団のイマラ・ロウト・ジャジャスはこの国の王女である。後に息子のジャコー・クォン・ハッシュが王となる。
惑星ペスタコ
太陽からかなり離れている上に、有毒ガスを含む大気により本来は居住には不適だったものの惑星改造により生存が可能となった。カラミティへの供給を目的とした工業星である。
A.K.D.の星団統一で侵攻されなかった唯一の惑星。崩壊したカラミティの住人が移住し、反アマテラス活動の拠点となっていく。
ドール ワーカー イエロー コヒル ナツメグ トリックス パントリ スプーン パハク ツイン イートイ しゃみ プリズム リンゴ ストロベ チュー オムライス 冒険家 サイメッ チュートリ チョン フェニ キャン ファンブル フィス サザン ビエラ デパー 木綿のハン コイズ ラウンド ジンコール パフス マザー オシレー にっけ ベンチ こかげ チョッキ 日本全国 ユニタ タグカード オプテ ユトレ アドイン フリゲート 極楽トンボ トルリン ワスレナ フェミ

スタント遊星
ジョーカー星団5番目の太陽。約1,500年周期で星団内に巡ってくる。紫外線が放射される独特の恒星で、肉眼では黒い太陽にしか見えない。 惑星には太陽に近い軌道順に「緩(カー)」、「令(ヒョウ)」、太陽惑星「無(ナイン)」、「列(フー)」、「枝(シー)」、「膨(ホウ)」、「超(バスター)」があり、ナインとフー、シーとホウの間には小惑星帯が存在する。これらの惑星や、その周りを回る衛星は超帝國の技術でもテラ・フォーミングが出来なかった。 最外縁に位置するバスターについては、衛星の数が113個という以外の一切のデータが消失しており、ジョーカー星団全てを支配する者のみがその正体を知りうるとされている。また、星団に巡ってくる度に星団に何らかの影響を与えると言われている。

フォーチュン
「緑の星」と呼ばれ、ザ・ウィル星団暦7777年に天照とラキシスが再会、結婚し、2人の娘カレンが誕生するとされている星。詳細不明。

その他の作品舞台
ジョーカー太陽星団とは別の宇宙である「タイカ」世界や、地球も作品の舞台として描かれている。ちなみに、すべての世界にF.U.ログナーが存在する。

2009年02月09日

古代イスラエルの歴史は

古代イスラエル(こだいイスラエル)は伝説的な太祖アブラハムの時代からユダヤ戦争終結までのイスラエル古代史を概説する。古代イスラエルの歴史に関する資料は旧約聖書による部分が多いが、研究や発掘などによって史実としての裏づけが取れている部分もある。
久兵衛 弁慶国内 ユニット ノール とうもろこし レーズン おっくう ジャル パイダー デザート カメオ 四ツ溝柿 ドヤム ハマー ジグ ブルー フライス デリー トレイル 養老 チロリ パンテ スパイラル ティッカー イール シドニー ハナタ フィッ ノンド キーロガー シャワ バクー国内 プレーヤー ピエタ タリン 白い香 オリーブ ライプ カップル 眠り姫 ネブラ リンス 待ちぼうけ ワースト スマート フリーレ ドックス デッサン ズバー

紀元前5000年頃、カルデア人がウルに王朝を建てる。紀元前4000年頃、メソポタミアの平原一帯に大規模な洪水が起こる。その後、二つの民族があらたにウルに侵入し新しい王朝を建てる。紀元前3千年代、シュメール朝が興る。この都が「創世記」で言われるカルデア人のウルである。紀元前2100年頃、ウル第三王朝のウル・ナンムは支配下においたバビロン(バベル)にジグラッドを建てる。このような建造物の存在が創世記のバベルの塔の物語の背景にあるとも考えられる。

紀元前2000年、ウルは古バビロニアのハムラビ王によって滅ぼされる。紀元前1800年頃、ウルからハランへと北上してゆく半放牧のセム諸部族たちのなかに、テラ、アブラハム一家もあったと推定される。やがてアブラハムはハランの南方カナンの地に半定住する。これは旧約のなかでアブラハムの放浪として描かれてある。

紀元前1760年頃、バビロンとハランの間に位置するマリの大帝国がハムラビ王によって滅ぼされる。

イスラエル十二部族
旧約の「創世記」には、アブラハムの子のイサク、イサクの子ヤコブが後の古代イスラエル人の直系であるとある。 ヤコブは後にイスラエルと改名、このイスラエルの十二人の子供の子孫がイスラエル十二部族と呼ばれる。ところで、「創世記」ではおもにヘブライ人という呼びが主だが、「出エジプト記」以降ではイスラエル人という呼び名が主となっているため、二つの異なる物語が混成したのではないかという説もある。そのイスラエルの子の一人であるヨセフが族長の時代は、前1700年~1600年頃であった。

エジプト
古代パレスチナに定着したセム系の遊牧民であるヒクソス(エジプトの言葉で、よその土地の王の意)が、紀元前1730年頃から紀元前1580年までエジプトを支配。この頃にイスラエルの一族がエジプトに移住する。だが前1580年ヒクソスが倒され、エジプトはアーモセス第十八王朝となる。このときから外国人であるイスラエル族の奴隷時代がはじまる。

紀元前1230年頃(諸説がある)、エジプトのイスラエル人たちはモーセを中心にしてエジプトを脱出しカナンに向かう。その人数は多くても5千~6千人だったのではないかと推定されている。これが出エジプト(エクソダス)である。その後40年にわたってシナイ半島、ネゲブの砂漠をさまよう。この頃の部族の戒律がモーセの十戒である。

モーセの後継者ヨシュアのときに、カナンに散っていたイスラエル諸支族らを連合させてカナンの土地を落とし、ここに一応の定住をみた。 この一派がヤハウェ(ヤーウェ)を神とする宗教的な共同体を形成したはじめてのイスラエル民族の起こりとされる。だが当時カナンの地で有力な信仰はフェニキア系のバアル神であったためヤハウェ信仰はこれと混交した。

紀元前1300年頃から、鉄器をもつペリシテ人が地中海側からカナンに侵入しイスラエル人と敵対した。

以上が旧約聖書(ヘブライ聖書)の創世記からヨシュア記までの内容を基にした「歴史」記述であるが、神話的または伝説的な要素が強く、聖書記述の内容自身矛盾しているところもかなりあることから(たとえばヨシュアのカナン征服と士師記のカナン征服の「やり直し」など)史料としてどの程度価値があるが議論されている。また、旧約聖書のこの部分が最終的な編集段階を経て現在の形の書物にまとまったのも、後世の捕囚期かペルシャ時代という説が強い。

イスラエル王国の誕生
士師の時代から王政へ
士師記の記述によるとヨシュアの後の指導者はイスラエル人の神ヤハウェによって任される「士師」であったという。これが士師の時代である。「士師」という概念は、部族間や個人の争いを軍事的または法的に調停する裁判官の役目と、対外軍事や防衛を指導する指揮官を兼ねたような地位で、王権のように世襲制ではなく、部族間の内政や対外的な問題が起こるごとにヤハウェに任命されたという。このような一時しのぎ的で不安定な士師制から王政へ移行せよとの欲求が部族間から出てくる。サムエル記によると、紀元前1080年ごろペリシテ人が北部のガリラヤを制圧し、その地域のイスラエル人が奴隷となると、最後の士師で預言者でもあったサムエルは、サウルをはじめてのイスラエルの王として任じた。この王はペリシテ人との戦いの必要からでた軍事的な指導者であった。

サウル王の死後、サムエルに見出されたダビデは南部のユダ族をまとめて王となり、都ヘブロンを中心とした王国を建てる。これに対して北部イスラエルの11部族はサウルの死後、その子イシュバールを王とし、都マハナイムを中心に王国を建てた(サムエル下2:9-11)。これら二王国の内紛は7年以上続くが、イシュバールの死後、両国はダビデを王として認めることで和解した。

紀元前995年頃、ダビデは両王国の中心に位置するエルサレムのエブス人を倒し、以後、ここを拠点にペリシテ人らを退け、イスラエル王国(統一王国)を築いた。

ダビデの死後、紀元前963年にその子の一人ソロモンが国王を継ぐ。ソロモンは引き続き国の体制を整え諸外国との交易を盛んにし、またエルサレムに大きな神殿(エルサレム神殿)を建てた。この神殿は後世、第一神殿と呼ばれることになる。

ソロモン王の死後、部族間の抗争により統一体制は崩れ、やがて10部族がイスラエル王国(北王国)として独立し、南のエルサレムを中心とするユダ王国(南王国)と分離することになる。以後両国は盛んに争ったが、この戦争によって国力が衰えた。

北王国の首都サマリアは紀元前721年にはアッシリアによって陥落した。アッシリアのサルゴン2世はサマリアのイスラエル人指導層などを奴隷として連れ去りまたは追放して、その土地にメソポタミアなどからの異民族を移住させた。ここにイスラエル王国は滅亡する。このとき故地から引き離されたイスラエル人たちは後に「失われた十部族」と呼ばれている。またサマリアにはアッシリア支配下の各地からの移民が移り住み、イスラエル王国の故地に残ったイスラエル人と移民との間に生まれた人々がサマリア人と呼ばれるようになった。サマリア人は、混血したことや移民たちの信仰をユダヤ教に混交させたことから後に差別される存在となった。

貢納国としてのユダ王国
一方の南部のユダ王国はアッシリアの貢納国として独立を保った。ヒゼキヤ(前715?-686年)が王のときにアッシリアとの間に戦争を起こすが、前701年にはエルサレムが包囲され陥落されそうになり、和議を結んで再び貢納国として独立を保った。 前612年にアッシリアが新バビロニアに滅ぼされたため、旧北王国の領土が解放された。これを受けてヨシヤ(前647-609年)は国内の宗教改革に取りかかった。前622年に祭壇から発見されたとする「申命記」の記述に従って、国内の祭儀と司祭制度を中央集権化した。(申命記改革)

前597年、新バビロニアのネブカドネザルがエルサレムに侵攻し、ヨヤキン王を含めた1万ほどのイスラエル人をバビロンに連れ去り捕虜とした。これは第一回の捕囚と呼ばれる。その後ユダ王国は新バビロニアの貢納国となったが、10年後にゼデキア王が完全独立を試みる。だが紀元前586年にはネブカドネザルによってエルサレム城壁が崩され神殿は破壊された。ここにユダ王国は滅亡。このときもバビロンに多くが捕虜とされて連れて行かれたが、これは第二回の捕囚と呼ばれる。捕囚されたユダヤ人たちのバビロンでの生活はかなり自由であった。

ユダヤ人のエルサレム帰還
新バビロニアを滅ぼしたペルシア王大キュロス(前600年頃-前529年)は、紀元前538年にイスラエル人を解放する。だがバビロニアでの生活を捨ててエルサレムに帰還したユダヤ人は2~3割と言われている。それ以外の多くは自由意志でバビロニアに残留した。 ペルシア王ダレイオス1世治下の紀元前515年、ゼルバベルの指導でエルサレム神殿が再建された。これは第二神殿と呼ばれている。紀元前458年にエズラの指導のもとで二度目の集団帰還が行われた。またネヘミヤとエズラとがこの時期、国の整備とユダヤ教の形式とを固め、これが現代のユダヤ教またはユダヤ文化へ直接に影響している。ユダヤ人の民族外結婚を禁じたのもこの時であり、これによってユダヤ民族の独自性が今日にまで保たれている。

ヘレニズム時代
紀元前333年にマケドニア王国のアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)がペルシアのダレイオス3世を打倒すると、ユダヤ地方もギリシアの支配下に入った。ヘレニズム国家支配時代の始まりである(ヘレニスト)。

ヘレニズム国家による支配は紀元前143年まで続くが、ギリシアの自由政策のもとユダヤ人による自治と宗教の自由は守られ国内の商業も盛んとなった。同時にユダヤ地方がギリシャ風のヘレニズム文化の影響を受けていくことになる。

プトレマイオス朝の支配
アレクサンドロス大王が逝去すると、その領土は将軍たち(ディアドコイ)によって分割され、その支配をめぐる争いがおきた(ディアドコイ戦争)。ユダヤを含むシリア地方南部ははじめエジプトを領したプトレマイオス朝の支配を受けたが、この地方に触手を伸ばすセレウコス朝シリアとの間で何度も戦いが繰り返された。

この時代、紀元前3世紀の中ごろ、エジプトのアレクサンドリアにおいて聖書がギリシャ語に翻訳された。これを「七十人訳聖書」という。

セレウコス朝の支配
セレウコス朝シリアは数次にわたる戦いのすえ、ついに紀元前198年にユダヤ地方を含む地域の支配権を獲得した。

紀元前175年にはセレウコス朝のアンティオコス4世エピファネスがプトレマイオス朝を圧迫し、アレクサンドリアも陥落寸前となった。ここにおいて急速に勢力を伸ばしていた共和制ローマが中東における巨大勢力の誕生を危惧して、中東情勢に介入したため、プトレマイオス朝は滅亡を免れた。このアンティオコス4世はユダヤにおいてもヘレニズム化政策を強引に押し進め、エルサレム神殿での異教崇拝などを強要したため、ユダヤ人の反感は高まっていった。

マカバイ戦争とハスモン朝
紀元前167年になると祭司マタティアとその息子たち(マカバイ家)をリーダーとする反乱が勃発した。マタティアがなくなると息子のユダ・マカバイ(ユダス・マカバイオス)をリーダーとして戦闘が継続され、紀元前164年にエルサレム神殿を奪回した。ユダの死後は兄弟のヨナタンが指揮をとった。

この一連の戦いをマカバイ戦争といい、この戦争のユダヤ人側の観点による記録が「マカバイ記」である。ヨナタンとその兄弟シモンは諸勢力との合従連衡をたくみに繰り返し、紀元前143年にはセレウコス朝の影響を脱してマカバイ家による支配を確立させた。ここに実に数百年ぶりにユダヤ人による独立国家が回復した。

この国家は紀元前130年ごろ、シリアの支配力の増大によって、一度は独立を失ったが、シリアの内紛によって再び独立を獲得した。シモンの息子ヨハネ・ヒルカノス1世は父の死後、父の保持していた大祭司にして首長というユダヤ神権政治の権威を世襲した。このマカバイ家の世襲支配によるユダヤ独立国家を、祭司マタティアの曽祖父ハスモンの名からハスモン朝という。

ヨハネ・ヒルカノス1世は軍事的才能と傭兵の力によって支配領土を拡大することに成功した。ハスモン朝のやり方は伝統的なユダヤ人の反感を買うこともあった。この時期にユダヤ教敬虔主義からエッセネ派、ファリサイ派、サドカイ派が起こり、特にエルサレム神殿祭司層を中心としたサドカイ派と在家で民間基盤のファリサイ派の対立が激しくなる。

ヨハネの子で親サドカイ派のアリストブロス1世がはじめて「王」の称号を名乗った。以後、弟アレクサンドロス・ヤンナイオス、さらにその死後、親ファリサイ派の妻サロメ・アレクサンドラは息子ヨハネ・ヒルカノス2世を大祭司にたてて統治した。

サロメが死ぬと、ヨハネ・ヒルカノス2世が王位を継いだが、弟アリストブロス2世は武力にものを言わせてこれを奪取。王位についた。

ローマ支配時代
ハスモン朝の内紛とヘロデ大王の時代 
紀元前63年にはローマのポンペイウスが中東へ遠征してきてセレウコス朝を滅ぼした。当時のハスモン朝はヨハネ・ヒルカノス2世とアリストブロス2世の争いが続いていた。両勢力はローマへの接近を図るが、ローマは無能なヒルカノス2世のほうが傀儡にふさわしいと考え、支援したため、アリストブロス2世は死に追い込まれた。

ユダヤはこうしてある程度の自治を認められながら、ローマの属州シリアの一部となった。この時期、ローマに取り入ってユダヤの実権を握ったのはヒルカノス2世の武将でイドマヤ出身のアンティパトロスであった。その後、ユリウス・カエサル暗殺後の混乱の中で、アンティパトロスは紀元前43年に殺害された。代わって息子のヘロデ(ヘロデ大王)が兄パサエロスと共にユダヤを支配した。先の王アリストブロス2世の息子アンティゴノスが隙に乗じてヒルカノス2世とパサエロスを捕らえると、ヘロデはからくも脱出。ローマにわたって支援を要請した。

ヘロデはユダヤの王という称号を認められ、エルサレムに帰還してアンティゴノスを撃破。紀元前37年にハスモン朝が終焉し、ヘロデ大王の時代になった。ヘロデ大王は純粋なユダヤ人でなかったので、ヒルカノス2世の孫マリアンメ1世を妻にするなどハスモン朝の血統を利用しながら、自らの正当性を確立していった。そして不要となるとハスモン朝の血を引く人々をすべて殺害していった。ナザレのイエス(イエス・キリスト)が生まれたのはこのヘロデ大王の治世の最晩年であったらしい。

猜疑心にとりつかれたヘロデ大王が紀元前4年に血にまみれた生涯を終えると、その息子たちによってユダヤは分割統治された。ローマはユダヤ王の称号をヘロデの息子たちに与えず、エルサレム、サマリアを含むユダヤをヘロデ・アルケラオスが、ペレヤとガリラヤをヘロデ・アンティパスが、ゴランとヨルダン川東岸をヘロデ・フィリポスがそれぞれ統治する。結局アルケラオスの失政のため、ユダヤはローマの総督による直轄支配となった。ちなみにイエスの出身地とされるナザレはガリラヤの寒村である。

ユダヤ戦争 
ローマ帝国はユダヤでサンヘドリン(最高法院)に宗教的権威を認めながらも政治的権威を与えなかった。ユダヤは総督の支配におかれたが、総督たちがユダヤ文化を軽蔑し、失政を繰り返したこともユダヤ人の反感を募らせた(そもそもユダヤ人にはローマ帝国の国是である政教分離の概念が無かった)。その間、ヘロデ大王の孫アグリッパ1世がユダヤの統治をしたこともあったが、死後はまた総督直轄に戻された。

紀元66年、ついにユダヤ人の不満が爆発し、ここに独立を目指してユダヤ戦争(第1次ユダヤ戦争)が勃発。しかし70年にはローマ軍が半年にわたってエルサレムを包囲し兵糧攻めにしてついに陥落させ、神殿も破られた。(この間の事情はフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』にくわしい。)

132年にもバル・コクバに率いられた反乱(バル・コクバの乱、第2次ユダヤ戦争)がおきた。彼はユダヤの独立を達成し、キリスト教徒を除く全ユダヤ人からメシアであると承認された。彼はエルサレムで二年半の間イスラエルの大公(ナーシー)として統治した。彼の公国は135年にローマ帝国征服された。

大きな反乱が続発し、ユダヤ人の統治の困難さに手を焼いたローマ人はユダヤ地方からユダヤ色を一掃しようと考え、ユダヤ人が忌み嫌っていたペリシテ人の名前をとり、この地方をパレスチナと名づけた。ユダヤ人たちはこれ以前にもすでに広くローマ帝国内や各地に離散していたが、ここに再び多くのユダヤ人が離散を余儀なくされ、長いディアスポラの時代が始まった。ローマによるエルサレム神殿破壊の結果、神殿祭儀中心の古代ユダヤ教は終焉し、以後ユダヤ教の学問の中心はガリラヤ地方に移り、ファリサイ派の伝統を下地に、今日の現代ユダヤ教にまで発展するユダヤ教の原型ができた。一方、ナザレのイエスの活動から、普遍的な教義を受け入れたグループは初期キリスト教(原始キリスト教)に発展することになる

2009年01月23日

小島組(現・小島プロダクション)が制作した。

『ポリスノーツ』(POLICENAUTS)は、1994年にコナミ(現・コナミデジタルエンタテインメント)から発売されたアドベンチャーゲーム。小島秀夫率いるゲーム開発チーム、小島組(現・小島プロダクション)が制作した。

21世紀のスペースコロニーを舞台に繰り広げられるSFハードボイルドアドベンチャーである。

直前作である『スナッチャー』で見られた「映画的演出を導入したアドベンチャーゲーム」という方向性をより推し進めた発展的作品。小島はこれ以降、「映画的演出を導入したアクションゲーム」の制作に着手し、その後の『メタルギアソリッド』シリーズは全世界で大ヒット作となり、小島秀夫の名を世界的に有名なものとした。

小島自身がアドベンチャーゲームを制作したのは(2008年時点では)本作が最後だが、小島組のスタッフによって制作された『ときめきメモリアルドラマシリーズ』は、本作で培われた映画的演出の手法が受け継がれている。

ポリスノーツは様々な機種に展開しているが、いずれも日本でのみしか発売されていない。アメリカでは、1996年の5月にセガサターン版の発売がコナミの現地法人により告知されたが、その後立ち消えとなり発売はされていない。日本で発表された小島秀夫のインタビュー記事によると、英語のセリフの吹き替えとアニメーションシーンでの画面動作のタイミング合わせに問題があったとしている[要出典]。

プロローグ
2010年、人類はラグランジュ・ポイント5に、オニール型スペースコロニー「BEYOND COAST」(ビヨンド・コースト)を完成させ、移住を開始した。

宇宙への一般市民の大量移住に対応すべく、世界中から選抜された5人の警察官が宇宙飛行士としての訓練を受け、BEYONDの治安を守るべく配備された。警官(POLICE)であり宇宙飛行士(ASTRONAUTS)である彼らを、人々は「ポリスノーツ」(POLICENAUTS)と呼んだ。

最初のポリスノーツ「オリジナル・コップ」の一人であるジョナサン・イングラムは、任務中に発生した事故のため、宇宙空間を漂流することとなる。人工冬眠状態で眠っていた彼が奇跡的に救助されたとき、外界では既に25年の年月が過ぎていた。

時代から取り残され、宇宙恐怖症となったジョナサンは、オールドロス(ロサンゼルス)のスラムで私立探偵を営み、日々の食い扶持を稼いでいた。そんな彼に、BEYONDから一人の依頼人が訪れる。ロレイン・北条、かつて自分の妻だった女性であった。『行方不明となった再婚相手を捜索してほしい』という彼女の依頼を受けるかどうか決めかねていたジョナサンだったが、彼の目の前でロレインの車が爆破され彼女は息絶える。

事件の真相を探るため、ジョナサンは再びBEYONDへと向かうことになる。

主な登場人物

ジョナサン・イングラム
(声:田中秀幸)

この物語の主人公。年齢30歳(戸籍上は55歳)・身長178センチ・体重60キロ。OLAで探偵業を営む。元ポリスノーツ・オリジナル・コップの一人。

ロス市警で敏腕刑事として名を上げ、ポリスノーツに推薦される。当時は麻薬捜査官としてエド・ブラウンとコンビを組みロス市警の名物デカとして知られていた。この頃、日系3世のロレインと結婚。ポリスノーツの訓練期間中(2011~2013)に米日露共同プロジェクトで行われた「火星有人探査計画」に参加。4人の宇宙飛行士と共に火星表面に7日間の滞在に成功、「人類初の火星の土を踏んだ男」として宇宙史に残る経歴を持つ。

地球に帰還後、数十カ月にも及ぶ火星行きがもとでロレインと別居。彼女を地球に残して翌2013年、ポリスノーツのオリジナルコップとしてビヨンドに渡る。3カ月後、試作EMPS機「ユーリー」の遊泳実験中バーニヤ故障事故で宇宙に放り出され行方不明となる。 サバイバル・ボールでコールド・スリープ状態のまま25年間、太陽系をさまよった彼は2038年、奇跡的に救助される。極度の宇宙恐怖症にかかった彼は宇宙環境不適合者の認定を受け、地球で孤独に暮らすことになる。25年もの時の流れは知人や家族を彼から奪っていったので ある。

3年に及ぶリハビリを終えた彼はデカ時代のコネからOLAでネゴシエータ(交渉人)まがいの探偵業をはじめ、細々と暮らしている。愛用するタバコの銘柄はモスレム。

因みに、彼をモチーフとしたキャラクターが、『メタルギアソリッド4』にゲスト出演している。

エド・ブラウン
(声:飯塚昭三)

BCP(ビヨンド警察)風紀課主任。年齢55歳・身長183センチ・体重90キロ。元ポリスノーツのオリジナルコップの一人。2人の子持ち。

宇宙飛行士(シャトル計画パイロット)の息子としてLAに生まれる。ロス市警の爆発物処理班で一年間爆発物解体専門に作業、パートナーの事故をきっかけに麻薬課へ転属。当時麻薬捜査官であったジョナサンとコンビを組み、活躍。黄金コンビとしてロス市警から様々な表彰を受ける。その才能と家系や資質(ライト・スタッフ)を認められ、ジョナサンと共にポリスノーツに推薦され、2013年、ポリスノーツとしてビヨンドへ渡る。

ジョナサンの事故後、ゲイツやトクガワらと共にBCPの確立に力を注ぐが、才能が振るわず、次第に窓際に追いやられる。2023年、婦人警官のキャサリンと結婚、翌年、娘のアナが生まれる。ゲイツはAP(アドバンスド・ポリス)を設置、BCPの長になっていく一方で、エドの署内での立場は年々悪化していく。それと平行してエドの仕事への執着も薄れ、事務的なものになっていく。宇宙線の影響により腎臓を患ったキャサリンが4年もの移植ドナーの順番待ちの末、2036年に腎不全と合併症により死亡。宇宙開発に伴う臓器異常が多発し始めた時期で、臓器バンクの臓器が不足していた頃であった。愛妻を亡くしたエドは支えを失い、刑事として廃人同様となる。

翌年、NARC中毒者が幻覚症状で妻子を殺害しようとした為に中毒者を射殺するという事件に直面する。中毒者は政府のAPあがりのフローズナー、妻は病院に運ばれたが出血多量で死亡。残された3歳の少年マークは一命を取り留めたが、目前で起きた事件のショックにより言葉を発することができなくなる。自責の念に苛まされたエドは引き取り手のないマークを養子に迎える。この事件以来エドは銃を撃つことが出来なくなり、デスクワークを希望。マークへの献身の日々を送るが、マークの理解は得られず親子の関係はぎくしゃくしている。APがBCPの実権を握る一方でエドはBCPの苦情処理的な部署である風紀課に追いやられる。JUNK屋と言われる風紀課はBCP内でのごみ捨て場に例えられ、様々な問題デカが送り込まれる。エドはこの風紀課の主任を任されているが、3年先に迫った定年までの間その日その日を事務的にこなしている。

因みに、彼をモチーフとしたキャラクターが、『メタルギアソリッド4』にゲスト出演している。

2009年01月16日

興世王と武蔵武芝を会見させて和解させたが

サクソニ ルンバー ソブー ミルク てやり ライフ レビス 待ちぼう マジシャン 青春 オーバ フェー スクリュー ディトム チグリ ファーレ レギュレ レゾナ クホス フェムド オタク サテュロス マキシ るもい ステッチ チヂミ ボート トップ ジャッ 大同情報 ジュラル ストロ カバオ ルビー ブロー キング イラマチオ 月夜の オブシデ ジップ ギモーブ マッチ 幸運快適 つる菜 ラナイ メコン リイシュー スラッシ ローテー だて

天慶2年(939年)2月、武蔵国へ新たに赴任した権守、興世王(出自不明)と介源経基(清和源氏の祖)が、足立郡の郡司武蔵武芝との紛争に陥った。将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させて和解させたが、武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲(経緯は不明)し、驚いた経基は京へ逃げ出してしまう。京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を朝廷に訴えた[4]。将門の主人の太政大臣藤原忠平が事の実否を調べることにし、御教書を下して使者を東国へ送った。驚いた将門は上書を認め、同年5月2日付けで、常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書をそえて送った。これにより朝廷は将門への疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられた。将門の関東での声望を知り、朝廷は将門を叙位任官して役立たせようと議している。

この時期には将門と敵対者の戦いはあくまでも私戦(豪族間の個人的ないざこざ)とみなされ、国家に対する反乱であるという認識は朝廷側にはなかったと考えられている。

平将門の乱
この頃、武蔵権守となった興世王は新たに受領として赴任してきた武蔵国守百済貞連と不和になり、興世王は任地を離れて将門を頼るようになる。また、朝廷への租税を滞納していたことにより追捕令が出ていた常陸国の藤原玄明が庇護を求めると将門は玄明を匿い常陸国府からの引渡し要求を拒否した。そのうえ天慶2年11月21日(939年)、軍兵を集めて常陸府中(石岡)へ赴き追捕撤回を求める。常陸国府はこれを拒否するとともに宣戦布告をしたため、将門はやむなく戦うこととなり、将門は手勢1000人余ながらも国府軍3000人をたちまち打ち破り、常陸介藤原維幾はあっけなく降伏。国衙は将門軍の前に陥落し、将門は印綬を没収した。[5]結局この事件によって、不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまう。将門は側近となっていた興世王の「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム。」との進言を受け、同年12月11日に下野国府を占領し、続いて迎撃に出兵した上野介藤原尚範(同国は親王任国のため、介が最高責任者。藤原純友の叔父)を捕らえて助命する代わりに印綬を接収して国外に放逐、19日には指揮官を失った上野国府を落とし、関東一円を手中に収めて「新皇」を名乗り天皇に即位、独自に除目を行い岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた。また、この即位に際して舎弟平将平、小姓伊和員経らに諫言されるも聞き入れなかった。

新皇将門による諸国の除目と素性
下野守:平将頼(将門弟)
上野守:多治経明(陣頭・常羽御廐別当)
常陸介:藤原玄茂(常陸掾)
上総介:興世王(武蔵権守)
安房守:文屋好立(上兵)
相模守:平将文(将門弟)
伊豆守:平将武(将門弟)
下総守:平将為(将門弟)
なお、天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の三か国は親王が太守(正四位下相当の勅任の官)として治める親王任国となったが、この当時は既に太守は都にいて赴任せず、代理に介が長官として派遣されていた。したがって坂東王国であるなら介というのは制度上太守が存在することになるが、ここでの常陸、上総の介は慣習上の長官という意味か、新皇直轄という意味か、将門記の記載のとおり朝廷には二心がなかったという意味なのかは不明である。

将門謀反の報はただちに京都にもたらされ、また同時期に西国で藤原純友の乱の報告もあり、朝廷は驚愕する。直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ、翌天慶3年(940年)1月9日には源経基が以前の密告が現実になったことが賞されて従五位下に叙され、1月19日には参議藤原忠文が征東大将軍に任じられ、忠文は屋敷にかえる事無く討伐軍長官として出立したという。

同年1月中旬、関東では、将門が兵5000を率いて常陸国へ出陣して、平貞盛と維幾の子為憲の行方を捜索している。貞盛の行方は知れなかったが、貞盛の妻と源扶の妻を捕らえた。将門は兵に陵辱された彼女らを哀れみ着物を与えて帰している。将門は下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた。『将門記』では「然ルニ新皇ハ、井ノ底ノ浅キ励ミヲ案ジテ、堺ノ外ノ広キ謀ヲ存ゼズ。」と、この将門の一連の行動を”浅はか”であると評しており、事実その足場を固めねばならない大事な時期に貞盛らの捜索のために無駄に時間と兵力を使ったことは、後々の運命を見ると致命的となったと言える。

間もなく、貞盛が下野国押領使の藤原秀郷と力をあわせて兵4000を集めているとの報告が入る。将門は諸国から召集していた軍兵のほとんどを帰国させていたこともあり手許には1000人足らずしか残っていなかった。時を移しては不利になると考えて2月1日出陣、将門の副将藤原玄茂の武将多治経明と坂上遂高らは貞盛・秀郷軍を発見すると将門に報告もせずに攻撃を開始、しかし玄茂軍は敗退してしまう。貞盛・秀郷軍はこれを追撃し下総国川口にて将門軍と合戦になり将門自ら陣頭に立って奮戦し貞盛・秀郷らもたじろぐが、時が経つにつれ数に勝る官軍に将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされた。

将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負をしかけるため、幸嶋郡の広江に隠れる。しかし貞盛・秀郷らはこの策には乗らず、勝ち戦の勢いを民衆に呼びかけ更に兵を集め、藤原為憲も加わり、2月13日将門の本拠石井に攻め寄せ焼き払う「焦土作戦」に出た。これによって民衆は住処を失い路頭に迷うが、追討軍による焼き討ちを恨むよりも、将門の「悪政」を嘆いたといい、既に民心は将門から離れていた。当の将門は身に甲冑をつけたまま貞盛らの探索をかわしながら諸処を転々とし、反撃に向けて兵を召集するが形勢が悪くて思うように集まらないために攻撃に転ずることもままならず、僅か手勢400を率いて幸嶋郡の北山に陣をしいて味方の援軍を待つ。しかし、味方の来援よりも先にその所在が敵の知ることとなり寡兵のまま最後の決戦の時を迎えることとなった。